伊予の河野氏

四国旅行で湯築城跡の道後公園へ行きました。

河野氏の存在を初めて知りました。

河野氏は松山市北条付近に根拠地を持つ水軍が出自で、守護大名、戦国大名となった伊予国(愛媛県)の一族である。
道後に湯築城を築き、本拠を移した。

河野氏は伊予における有力豪族で、平清盛率いる伊勢平氏の傘下にあったが、その後、源平合戦においては河内源氏の流れを汲む源頼朝の挙兵に協力して西国の伊勢平氏勢力と戦った。
承久の乱のとき、反幕府側の後鳥羽上皇に味方したために一時的に衰退したが、元寇のときに勇将・河野通有が活躍してその武名を馳せ、河野氏の最盛期を築き上げた。

南北朝時代には四国へ進出し、伊予へ侵攻し、四国管領となった細川頼之に駆逐され、九州の南朝勢力であった懐良親王に従い伊予奪還を伺う。
幕府管領となった細川頼之が1379年の康暦の政変で失脚すると、河野氏は南朝から幕府に帰服し、頼之追討令を受けて細川方と戦う。
その後頼之が幕府に赦免されると、1386年には3代将軍足利義満の仲介で河野氏は細川氏と和睦する。

戦国時代に入ると、河野氏内部では家督をめぐっての争いが起こるようになった。
これにより河野氏はさらに衰退してゆくことになる。
対外的にも、土佐の長宗我部氏や豊後の大友氏、安芸の毛利氏や讃岐の三好氏などの侵攻を受けるようになり、1585年、河野通直の時代に長宗我部元親の軍門に降ることとなった。

しかし同年、豊臣秀吉の四国征伐で元親は秀吉に降伏し、通直も小早川隆景の説得を受けて降伏することとなった。
その後、通直は大名としての道を絶たれ、安芸竹原に仮寓を与えられた。そして1587年、通直が嗣子無くして没したため、河野氏は完全に滅亡した。

江戸期以降に成立した家譜をベースに語られてきた戦国期の河野氏の実像について、本拠である湯築城の発掘などで各方面の資料を基にした検証が進んでいる。

河野通直の死後直系の子孫は絶たれたが、遺臣たちは再興をかけて戦いを挑んだ。

朝鮮出兵において、秀吉が名護屋に移動する最中、秀吉暗殺を計る芳流閣吊り天井事件を試みたが、失敗し、予州勢残党は徹底的に弾圧され、朝鮮の役においても非常に苦しい戦場に配置された。

1600年には関が原の戦いに呼応して、安芸の毛利、村上勢と、四国に残留した平岡勢が協同して、加藤嘉明の居城 伊予松前城に攻めるが、守将佃十成の計略にはまり、完全に撃破されてしまった。
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by spremuta-arancia | 2006-06-10 17:59 | 日本史 | Comments(0)

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