生駒騒動(2)

生駒騒動
寛永12年(1635年)、生駒家は幕府より江戸城修築の手伝い普請を命じられ、江戸の材木商の木屋から借金をして行った。
前野と石崎はこの返済のために高松城の南方の山の松林を木屋に伐採させた。
この山は親正が高松城を築いたときに要害として伐採を禁じた土地であった。
家中の者たちは憤慨し、家老生駒帯刀(生駒将監の子)を説き立て、前野と石崎の非違を親類へ訴えた。

寛永14年(1637年)7月、生駒帯刀は江戸へ出て藤堂家の藩邸へ行き訴状を差し出した。
訴状を受け取った藤堂高次は生駒帯刀を尋問。高次は穏便に済ますよう帯刀を説諭し、次いで前野と石崎を藩邸に召して厳しく訓戒し、以後は慎むよう誓わせた。

しかし、家中の不和は収まらず、かえって激しく対立するようになった。

寛永15年(1638年)10月、帯刀は再び高次に訴え出た。
高次は帯刀を呼び、家中の不和が続くようではお家滅亡になると諭して帰した。

寛永16年(1639年)4月、参勤交代で江戸に出た高次は、生駒家はお取り潰しになるかもしれないと考え、ことを収めるため喧嘩両成敗として双方の主だった者5人に切腹を申し付けることになった。

5月、藩主高俊が参勤交代で江戸に来て前野と石崎も従っていた。高次は前野、石崎および国許から帯刀を呼んで説得し、彼らは御家のために切腹することを承知した。

8月、高次は使者を遣わし江戸での決定を家中の者たちに伝えた。
これに帯刀派の家臣たちが不満を抱き、12月、彼らは江戸にいる藩主高俊に帯刀ら忠義の者の命を助けるよう訴えた。
事情を全く知らなかった高俊は驚き、親類方が相談もなくことを決めたことに怒った。

寛永17年(1640年)1月、高俊は藤堂家の藩邸に赴き高次に抗議した。
高次は説諭するが高俊は納得せず、怒った高次は生駒家の家政から手を引くことにした。

帯刀は帰国し、帯刀派は歓喜した。
江戸で切腹するつもりで控えていた前野と石崎は衝撃を受け、切腹をやめた。
4月、前野・石崎派は老中稲葉正勝に訴状を提出した。

讃岐では、前野・石崎派の侍8人、家族や家来を含めると2300人が鉄砲や刀槍で武装して国許を立退く大騒ぎになった。
江戸でも一味の者たちが藩邸を立退いた。
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by spremuta-arancia | 2006-06-12 07:32 | 日本史 | Comments(0)

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