姫路城その1

国宝姫路城
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南北朝時代、赤松則村が姫路山上に築いた称名寺をもとに、正平元年(1336年)その子赤松貞範による築城説が有力。

室町時代(1441年)の嘉吉の乱で赤松氏が没落すると、一時山名氏が入るが、応仁の乱の混乱の中赤松氏が奪還。

16世紀前半、御着(ごちゃく)城を中心とした赤松支族の小寺氏が播州平野に台頭、その被官であった黒田重隆が城代として姫路城に入った。(この時期の築城説もある)

重隆によって居館程度の規模であった姫路城の修築がある程度行われ、地形を生かした中世城郭となったと考えられている(規模は現在のものよりはるかに小さい)。

天正初年まで黒田氏が代々城代を勤め、重隆の子職隆、孫の孝高(官兵衛、如水)に伝えられた。

天正4年(1576年)に羽柴秀吉が播磨に進駐すると、播磨国内は織田氏につく勢力と中国地方の毛利氏を頼る勢力とで激しく対立、最終的には織田方が勝利し毛利方についた小寺氏は没落。小寺氏の被官でありつつも早くから秀吉によしみを通じていた黒田孝高はそのまま秀吉に仕える事となった。

天正8年(1580年)、黒田孝高は秀吉に居城であった姫路城を献上した。

秀吉は大整備を行って近世城郭に改めるとともに、当時流行の石垣で城郭を囲いさらに天守(三層と伝えられる)を建築した。

城の南部に大規模な城下町を形成させ、姫路を播磨国の中心地となるように整備した。

天正10年(1582年)6月、秀吉は主君信長を殺害した明智光秀を山崎の戦いで討ち果たし、一気に天下人への地位を駆け上って翌天正11年には天下統一の拠点として築いた大坂城へ移動。

姫路城には弟の羽柴長秀(後の豊臣秀長)が入ったが天正13年には大和郡山へと転封、替わって親族の木下家定が入った。

慶長5年(1601年)、木下家定は備中に2万5千石で転封、代わって池田輝政が関ヶ原の戦いの戦功で52万石(播磨一国支配)で入城した。

輝政によって8年掛かりに及ぶ大改修が行われ、広大な城郭が築かれる。

元和3年(1617年)、池田氏は跡を継いだ光政が幼少であり、重要地を任せるには不安である事を理由に因幡鳥取へ転封させられ、伊勢桑名から本多忠政が15万石で入城した。

元和4年に息子本多忠刻に嫁いだ千姫の為西の丸を整備、全容がほぼ完成した。

姫路の藩主は親藩および譜代が務め、本多家の後は奥平松平家、越前松平家、榊原家、越前松平家、本多家、榊原家、越前松平家とめまぐるしく入れ替わる。

寛延2年(1749年)上野前橋城より酒井氏が入城してようやく藩主家が安定する。

しかし、豪壮な姫路城は石高15万石の姫路藩にとっては非常な重荷であり、譜代故の幕府要職も相まって藩の経済を圧迫した。

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by spremuta-arancia | 2007-05-22 10:47 | 日本史 | Comments(0)

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