姫路城その2

a0048609_123394.jpg
幕末期、鳥羽・伏見の戦いにあって姫路城主酒井忠惇は老中として幕府方に属していた為、姫路藩も朝敵とされ岡山藩と龍野藩の兵1500人に包囲された。

この時、輝政の子孫・池田茂政の率いる岡山藩の部隊が姫路城に向けて数発空砲で威嚇砲撃を行っている。

その中には実弾も混じっており、このうち一発が城南西の福中門に命中している。

官軍の姫路城総攻撃は不可避と思われたが、摂津国兵庫津の勤王豪商・北風正造が15万両に及ぶ私財を官軍に献上し、それを食い止めた。

この間に藩主の留守を預かる家老達は最終的に開城を決定、城明け渡しで官軍と和睦する。

こうして姫路城を舞台とした攻防戦は回避され、焼失を逃れた。

明治4年(1871年)に廃藩置県がおこなわれ、さらに明治6年の廃城令によって日本の城の多くがもはや不要であるとして破却された。

姫路城は競売に付され、城下の米田町に住む個人が23円50銭で落札した。

城の瓦を売るのが目的であったというが、解体費用がかかりすぎるとの理由で結局そのままにされ権利も消滅した。

城跡は陣地として好適な場所であった事から、陸軍の部隊(歩兵第十連隊が設置)は城跡に配置された。

この際、三の丸などの数多くの建物が取り壊された。

さらに明治15年には失火で備前丸(池田輝政居館)を焼失している。

一方で、日本の城郭を保存しようという動きも、明治10年頃には見られた。

明治11年にようやく姫路城の修復は第一歩を踏み出した。

だが陸軍の予算からどうにか捻出された保存費は要求額の半分にも満たないものであった。

腐朽は進む一方で、城下各地の有志達の衆議院への陳情によってようやく1910年国費9万3千円が支給されて「明治の大修理」が行われた。

これも天守の傾きを修正するには費用が足りず、傾きが進行するのを食い止めるに留まった。


[PR]
by spremuta-arancia | 2007-05-22 11:47 | 日本史 | Comments(0)

平凡だけど幸せな毎日を過ごすおばさんの日記


by spremuta-arancia
プロフィールを見る
画像一覧