彦根

2/11彦根城と博物館
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雪もすっかり溶けていいお天気になりました。

弥千代の雛道具

弥千代の雛道具は、安政5年、弥千代が高松藩世子松平頼聰(よりとし)に輿入れしたときに調えられたものです。
江戸時代の大名家では、女子の婚礼の際に、婚礼調度に習って雛道具を調え持参するならわしがありました。
安政7年父直弼が桜田門外の変でこの世を去って後、弥千代は頼聰と離縁して井伊家へ戻りますが、この時雛道具もともに戻り、
明治5年に弥千代が再び頼聰のもとへ嫁した後も、井伊家に残されて伝えられてきました。


赤備え(あかぞなえ)は戦国時代の軍団編成の一種で、具足、旗差物などのあらゆる武具を朱塗りにした部隊編成の事。
戦国時代では、赤以外にも黒色・黄色等の色で統一された色備えがあったが、赤備えは特に武勇に秀でた武将が率いていた事が多く、後世に武勇の誉れの象徴として語り継がれた。
赤備えを最初に率いた武将は甲斐武田氏に仕えた飯富虎昌とされ、以後赤備えは専ら甲斐武田軍団の代名詞とされる。

井伊の赤備え
武田氏滅亡後、本能寺の変の混乱を経て甲斐国は徳川家康によって平定されるが、その折に武田家の旧臣達を配属されたのが徳川四天王にも数えられる井伊直政である。
武田の赤備えを支えた山県隊の旧臣達も直政に付けられ、これにあやかって直政も自分の部隊を赤備えとして編成している。
井伊の赤備えは小牧・長久手の戦いで先鋒を務めて奮戦し、井伊の赤鬼と呼ばれ恐れられた。
以後幕末に至るまで井伊家の軍装は赤備えをもって基本とされた。


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井伊直政以前はよくわかりませんが、関が原の合戦のあと佐和山城主の時18万石。

その後彦根の城主になった子孫は35万石を得る。

幕末、井伊直弼は日米修好通商条約を締結後、安政の大獄を経て桜田門外で死す。

最後は、官軍に謝ったためお城は壊されずに残りました。

彦根城に上がって、玄宮園という庭園を見たらもう14:00。

結局、彦根のお城だけでも十分楽しめました。
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by spremuta-arancia | 2008-02-12 14:36 | 旅行 | Comments(0)

平凡だけど幸せな毎日を過ごすおばさんの日記


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