カテゴリ:日本史( 33 )

関が原

JR垂井駅で下車

関が原の西軍

毛利の陣跡

南宮山に登って来ました

まず南宮大社に参って

そこから続くハイキングコースに入りました

う~んかなり厳しい

一応ハイキングコースなので

整備はしてありますが

石ころがごろごろあります

登り始めから

途中休憩を入れて

約1時間

やっと

毛利秀元が陣を張った場所に

行きつきました

ここからはたして

関が原は見えたでしょうか?

いや見えなかったと思います

では何故このような離れた南宮山

しかもこんな山の上に

陣を張ったのでしょうか?


毛利方安国寺恵瓊もハイキングコースの出発点辺りに陣を張りました

彼は毛利一族の中で

秀吉と隆景との間を連絡する活動を行っていた

ところが

小早川氏と並ぶ毛利氏の支柱であった吉川広家と対立した

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは

懇意であった石田三成と通じて西軍に与し

毛利一族の当主・毛利輝元を西軍の総大将として担ぎ出すことに成功したが

総大将毛利輝元は大坂城から一歩も動かなかった

戦をする気はなかったのだろう

結局吉川広家と小早川秀秋は徳川方に与し

西軍は負け

安国寺恵瓊は石田三成と一緒に討たれて果てました

ところで

大きな功績を上げなかった毛利は

論功交渉はないどころか

防長二州に追い込まれて

江戸時代をその恨みだけに200有余年過ごし

結局明治維新でその恨みを果たしたのでありましょう


関が原はやはり

いろいろ思いを馳せることのできる面白い場所であります
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by spremuta-arancia | 2016-04-06 18:59 | 日本史 | Comments(0)

上毛

手話のDVDを見た

いくつかの地名が出てくる

ほとんど読み取れない

内容は何箇所かの地区をまとめて

聴覚障害者団体を立ち上げる

という話だった

前橋、石川(ではなく渋川であった)沼田がわかった

ほかはわからなかった

地区は北+(髪の毛をさわった)地区

ヒント(北毛だそうだ)

ああ群馬だ

群馬のことを上毛という

群馬北部の地区を北毛というのかな?

でも、なぜ毛なのだろう?

栃木は下野(しもつけ)と言う

なぜ群馬を上毛というのか?との疑問がわいた

興味があるので調べてみた


群馬の旧国名は“上野国(こうずけのくに)”である
上野国にも群馬県にも“毛”の字なんてつかない

古代からの歴史ある“上毛”の呼称

「上毛という表現は既に古代の土器にも見ることができます。
当時から地元ではこの地域のことを“上毛”と言っていたのかもしれません」。
お話してくれたのは群馬県立歴史博物館のスタッフ。

平安時代には陸奧を統治する機関として、
坂上田村麻呂により造られた胆沢(いさわ)城跡(岩手県水沢市)でも、墨で“上毛”と書いた資料がある。
それが現在の群馬のあたりを指すかは定かではないものの、上毛という言い方は確かにあったようだ。

もともと群馬県は古墳時代、上毛野とも呼ばれていたという。
それが大宝4年(704)に「国名を2文字とする」と定められたとき、“毛”の文字が抜けて“上野”とされたよう。
しかし、地元では「毛」という文字に愛着があったのか、古代より上毛と呼ばれていた可能性は高い。

ここで疑問。
上毛野があるならば下毛野もないとおかしい。
そう思って調べたところ、現在の栃木県あたりを古墳時代に下毛野と呼んだことが分かった。
つまり、北関東一帯を毛野国と呼んでいたようだ。
下毛野は律令制以降には下野国と呼ぶようになり、現在、栃木県には下野新聞があったりもする。

ちなみに現在、JR両毛線があり、東武線に「両毛号」という特急があるが、
その両毛とは上毛野と下毛野の両方の地域を併せて指す言葉。
実際に両毛号は栃木と群馬を走っているのだ



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by spremuta-arancia | 2015-11-04 16:38 | 日本史 | Comments(0)

岩佐又兵衛

本日放送の「軍師官兵衛」

2014年 06月 02日 の拙ブログにも書いた

荒木村重の嫡子

岩佐又兵衛のことを

描いていた
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by spremuta-arancia | 2014-08-17 20:41 | 日本史 | Comments(0)

生駒吉乃さん

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織田信長の側室

生駒吉乃さんの墓地が

愛知県江南市にあるそうです

先般放送された

「軍師官兵衛」本能寺の変

信長の正室濃が

共に死んだと描かれたが

史実とあまりに違う

嫡男信忠
信長と共に本能寺で死んだ

信雄

徳姫
家康の嫡男信康に嫁した

を産んだのは吉乃さんである
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by spremuta-arancia | 2014-08-05 17:26 | 日本史 | Comments(0)

傾城反魂香

荒木村重の子

「岩佐又兵衛」は

信長に殺されずに生き残り

絵師となって

洛中洛外図を描いた

彼は

歌舞伎の出し物

「傾城反魂香」の

吃又のモデルでもある
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by spremuta-arancia | 2014-06-02 22:24 | 日本史 | Comments(2)

百官名

佐村さむら

河内守かわちのかみ


かと思った
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by spremuta-arancia | 2014-02-08 05:02 | 日本史 | Comments(0)

為政者は可哀想

従軍慰安婦問題にしろ

靖国参拝問題にしろ

本音は封印

今はただ忍の一字
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by spremuta-arancia | 2013-05-14 21:27 | 日本史 | Comments(0)

歴史講演会

今回は

皆さんのご存知の先生ではありませんが

「開府400年記念歴史講演会」
築城後の尾張名古屋藩

とても楽しかったですよ

先生、ほとばしる知識で話の途中

ついでにこれも話がどんどん横道に逸れるんです

そして、なっかなか戻ってこないんです

でも、歴女のはしりとしては(?)面白かった

松平忠吉がどうして死んだか

もう少し詳しく話して欲しかったけど

時間が限られているから仕方ないかな

その割にお亀の方(相応院)の石清水八幡宮の話から

八幡太郎義家まで話が飛ぶ

そして源敬公に戻る

「二品前亜相尾陽公源敬」

尾張徳川家の藩祖徳川義直の墓所定光寺にある

石塔に彫られた文字

歴史の研究家らしく尾張がどうして隆盛していたか(木曽の森林資源のおかげ)

本丸御殿を作るよりそれを研究し名古屋市民を教育啓発するのが先だろう

もっと郷土の歴史に関する知的好奇心を満足させることをやって欲しい

と言われてました

少数意見だと思います

一部の歴史好きにはこの意見も賛同を得るでしょうが

名古屋に観光客を呼ぶため

経済効果を考えたとき

やっぱり本丸御殿再建でしょうね

※松平忠吉は家康の四男

秀忠よりも優秀だったらしい

関が原の戦いのときの傷が元で

1607年に28歳で死去

家康は一度は忠吉を清洲に移封したのは
尾張を治めさせるつもりだったのか?
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by spremuta-arancia | 2009-06-19 23:21 | 日本史 | Comments(0)

ロマン

あまりに古い歴史は

物語性が感じられないので

中世以降の日本史と比べると

興味が湧きませんでしたが

先日、自転車で走った天理~桜井にかけての山之辺の道沿いに

卑弥呼の墓ではないかと思われる箸墓古墳がありました

なお写真は別の古墳です
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by spremuta-arancia | 2009-05-29 17:06 | 日本史 | Comments(4)

昭和美術館

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お茶を一服
安南(ベトナム)の茶碗

昭和区の閑静な住宅地に、2,200坪の敷地、都会の中の自然林庭園を有する美術館。

庭園内の南山寿荘は茶室および書院で、 江戸時代名古屋尾頭坂あたり堀川沿い東岸に所在した、尾張藩家老渡辺兵庫規綱の別邸の一部とされている。
館蔵品(重文3点)の80%が茶道に 関するものである。

渡辺家は
徳川義直が尾張藩主になった時から

渡辺半蔵家
渡辺新左衛門家
その他の渡辺家

の三家がかわるがわる家老を務めていた

幕末の青松葉事件で渡辺家の渡辺新左衛門在綱が名古屋城二之丸にて処刑された。

10代藩主斉朝の時家老の渡辺規綱、致仕して、兵庫守と名乗る。
渡辺半蔵寧綱が、家督を相続。
規綱、剃髪して兵庫入道と名乗る。
茶人となった。
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by spremuta-arancia | 2008-10-18 14:36 | 日本史 | Comments(0)