カテゴリ:日本史( 33 )

忠臣蔵

義士の一人

片岡源五右衛門の墓
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ウィキより
寛文7年(1667年)、尾張藩徳川家の家臣である熊井重次郎重次(知行300石御蔵米120石)の長男として名古屋に生まれる。
しかし生母が側室であったため、寛文10年(1670年)に正室の子である熊井藤兵衛次常が生まれると嫡男たる地位を奪われた。
高房は、弟ながら正室の子である次常に対しては「兄上」と呼ばされていたようだ。武士社会の辛いところである。
延宝2年(1674年)に8歳で親戚の赤穂藩士片岡六左衛門(知行100石)に養子に入った。
父熊井重次郎の弟長左衛門の娘が片岡六郎左衛門に嫁いでいたという関係にあったためである。
討ち入り前、閏8月には尾張の父や兄(本当は弟だが)達に連座しないように義絶状を送っている。
戒名は刃勘要剣信士。なお名古屋の乾徳寺にも墓が置かれた。

熊井重次郎重次は、元は浅野の家来で、尾張初代藩主徳川義直に輿入れした春姫に付いて芸州から尾張に来た者です。

命日が元禄16年2月4日(旧暦)新暦ならば3月20日とかで、歴史講演会で話を聞きました。

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by spremuta-arancia | 2008-03-06 16:58 | 日本史 | Comments(0)

犬山城

台風が接近して朝から断続的に強い雨が降っていました。

明日にも東京へ帰ってしまうH史。

犬山城行きを決行しました。

城の中に幕末の頃の大名と石高の一覧表があり、H史と夫はしばらくその前で立ち止まったまま、動きませんでした。

国宝犬山城

別名を白帝城といい、三国志の劉備が臨終を迎えたことで有名な白帝城にちなみ、荻生徂徠が命名したと伝えられる。
白帝城が長江沿いにあるように、犬山城も木曽川沿いにあることがその別名の由来である。

天文6年(1537)に信長の叔父織田信康は居城の木ノ下城を廃し、現在の位置に城郭を造営して移った。
現存する天守の2階まではこのころ作られたと考えられている。

天正12年(1584)小牧長久手の戦いの際、豊臣秀吉は大坂から12万余の大軍を率いてこの城に入り、小牧山に陣をしいた徳川家康と戦った。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦の頃、城郭が整備された。

元和3年(1617)に成瀬隼人正正成が城主になり、以後徳川時代を通じて成瀬家9代の居城となった。

犬山成瀬氏は身分は尾張藩の徳川家を補佐する重臣という立場であり、独立した大名として見られることは無かった。

このため、第7代当主・成瀬正寿や第8代当主・成瀬正住は尾張藩から独立しようと企てたが、いずれも失敗している。

慶応4年(1868)1月、新政府の維新立藩により、犬山城の成瀬家は正式に犬山藩主となり、尾張徳川氏の尾張藩から独立した。

明治2年(1869)に藩主・9代目成瀬正肥は版籍奉還により犬山藩知事に任じられる。

明治4年(1871)成瀬正肥の時、廃藩置県で廃城となり犬山藩は犬山県となり、その後、尾張藩を母体とする名古屋県に合併された。

名古屋県は愛知県と改名後、額田県(旧三河国と旧尾張国知多郡)を合併。

明治24年(1891)の濃尾地震で天守の一部や櫓・城門などがこわれたため、
明治28年(1895)、犬山城はに城の修復を条件に旧犬山藩主成瀬正肥に無償で譲渡された。

昭和10年(1935)国宝に指定。
4つの国宝の城の中で最も古い城である。

伊勢湾台風でも被害を受け、昭和36年から40年まで解体修理が行われた。

平成16年(2004)3月時点で日本で唯一の個人所有の城であったが、同年4月に財団法人「犬山城白帝文庫」に移管されている。


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by spremuta-arancia | 2007-09-09 07:06 | 日本史 | Comments(2)

歴史大好きなH史くん

彼の名前を考えた時、こんなに歴史に興味を持つとは思わないでつけました。

彼の日本史好きは行き着くところを知りません。

鬼籍の司馬遼太郎さんもびっくりでしょう。

まさにマニアックの世界です。

その彼が今の愛西市、昔、海部郡○○村出身のじいに勝幡城ってどこにあるか知っている?

知っているよ。

ワシの在所に近いよ。

ワシの在所には死んだ弟の娘、芳子というのが跡を取っとる。

むにゃむにゃ

『ワシに1度電話を寄越しただけでその後は何にも言って来ん。』

H史くんには何の興味もない。

その話は明日には忘れるから聞かせてもらわなくってもいいよ。

そうなんです。H史くんは興味のある知識だけが明日以降も忘れずに残っていくんです。

勝幡城は名鉄の駅から歩いて何分?

そうだねぇ。10分位かな?

勝幡城(しょばたじょう)は、愛知県稲沢市平和町六輪字城之内(旧・尾張国海東郡勝幡)にあった城郭。

織田信定が永正年間(1504年~1520年)頃、尾張国の海西郡を手中に治めた際に勝幡城を築城した。信定の跡を継いだ織田信秀は今川氏豊から那古野城を攻め取り、本拠を勝幡城から那古野城に移して、後、清洲城が織田家の本拠と成り、衰退して勝幡城は廃城と成った。

清洲城を本拠とした織田氏の一族清洲織田氏の守護代織田達勝のもとで奉行の地位にあり代々弾正忠と号した。また、彼は弾正左衛門尉とも称する。「清洲三奉行」の一人とされている。中島郡・海西郡に勢力を広げて津島の港を手中に収めた。この港から得た経済力が戦国大名としての織田氏の発展の基礎となったとされる。天文年間初めに信秀に家督を譲って隠居した。

勝幡駅(しょばたえき)は、愛知県愛西市勝幡町(旧海部郡佐織町域)にある。


じいは何と六輪を記憶していた!

H史くん果たして行くつもりか?
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by spremuta-arancia | 2007-09-08 07:11 | 日本史 | Comments(0)

前野家と生駒家

前野姓がどうして吉田姓(途中小坂姓)になったか?

父雄善(かつまさ)が松平忠吉に仕えていたとき清須城で不祥事をおこしたため、浪人となり前野村に帰ってきました。

父雄善(かつまさ)の後を継いだ孫四郎雄かね(かつかね)は、武門を捨てて百姓になり庄屋を務めました。

その時、キリシタンからの改宗のあかしに前野姓から吉田姓に改めました。。


生駒家の吉乃さん

生駒氏は藤原氏の一族である藤原忠仁公の子孫で、大和の生駒郡谷口村で油や灰などを扱い馬借業を営んでいたといいます。

応仁の乱(応仁元年1467)11年にわたる戦いは奈良地方まで戦禍が及びました。

生駒氏はその影響を受けて商売が不振になり、身辺の危険を感じて文明7~8年(1475~1476)ごろ前野氏を頼って、尾張の小折村に移住しました。

移住してからは商売も繁盛し、この地方の豪族として大きな力を持ち生駒屋敷を構えるにいたりました。
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生駒家長は幼名を昌利、通称八右衛門と呼ばれていました。

弟と妹が5人あって、その一人を「吉乃」といい、織田信長の夫人になり、信忠、信雄、徳姫(徳川家康の長男、信康夫人)を産んでいます。

信長の側室は生駒家の「吉乃」、濃姫が輿入れした時には既に嫡男信忠を懐妊していた。


この生駒家とはどうやら別のようです。
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by spremuta-arancia | 2007-08-06 18:50 | 日本史 | Comments(0)

本能寺の変

歴史研究家の講演を聞く機会がありました。

この方は「光秀の乱」と言っていました。

1万2千の兵で100人の護衛しかいない主君を討つのは一種のクーデターなので『変』というより『乱』といったほうがふさわしいからだそうです。

光秀がどうして主君の信長を討ったのか。

「明智家臣団の国人衆による要請があったとする説」

何年か前に論文として発表して優秀だとの評価を得たそうです。

光秀の生まれは美濃であるが、元々足利幕府の将軍の家来であったので活動拠点は畿内であり、彼の家臣は足利幕府の奉公衆が中心である。

この説を証明するために、古文書を読み解いたという歴史研究家の話を興味を持って聞きました。
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by spremuta-arancia | 2007-06-17 07:41 | 日本史 | Comments(0)

姫路城その3

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太平洋戦争にあって姫路城の白壁は非常に目立ち、又、陸軍の部隊が置かれていた姫路はアメリカ軍の爆撃対象とされたため、黒い網で主要な部分を覆い隠した。

しかし、昭和20年7月3日の姫路大空襲で姫路城下は灰燼と帰する。

城内にも着弾するが中学校校舎のみが焼失しただけで、西の丸に着弾した2発は不発か消火された。また大天守にも焼夷弾が直撃したが不発だった。

城本体は奇跡的に炎上を免れた。

姫路城は貴重な文化財なので爆撃対象とはされなかったという俗説がある。

日本の他の都市の城郭、例えば名古屋城など歴史的建造物も容赦なく破壊されたことから、そのような考えはなかったとするのが一般的である。

また、当時のB-29搭乗員は『レーダーから見れば城も輝く点の一つであり、それを歴史的建造物と認識するのは難しい』と回顧している。

翌朝、焦土の中に無事に建つ姫路城を見て城下の人々は涙したという。

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by spremuta-arancia | 2007-05-22 13:58 | 日本史 | Comments(0)

姫路城その2

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幕末期、鳥羽・伏見の戦いにあって姫路城主酒井忠惇は老中として幕府方に属していた為、姫路藩も朝敵とされ岡山藩と龍野藩の兵1500人に包囲された。

この時、輝政の子孫・池田茂政の率いる岡山藩の部隊が姫路城に向けて数発空砲で威嚇砲撃を行っている。

その中には実弾も混じっており、このうち一発が城南西の福中門に命中している。

官軍の姫路城総攻撃は不可避と思われたが、摂津国兵庫津の勤王豪商・北風正造が15万両に及ぶ私財を官軍に献上し、それを食い止めた。

この間に藩主の留守を預かる家老達は最終的に開城を決定、城明け渡しで官軍と和睦する。

こうして姫路城を舞台とした攻防戦は回避され、焼失を逃れた。

明治4年(1871年)に廃藩置県がおこなわれ、さらに明治6年の廃城令によって日本の城の多くがもはや不要であるとして破却された。

姫路城は競売に付され、城下の米田町に住む個人が23円50銭で落札した。

城の瓦を売るのが目的であったというが、解体費用がかかりすぎるとの理由で結局そのままにされ権利も消滅した。

城跡は陣地として好適な場所であった事から、陸軍の部隊(歩兵第十連隊が設置)は城跡に配置された。

この際、三の丸などの数多くの建物が取り壊された。

さらに明治15年には失火で備前丸(池田輝政居館)を焼失している。

一方で、日本の城郭を保存しようという動きも、明治10年頃には見られた。

明治11年にようやく姫路城の修復は第一歩を踏み出した。

だが陸軍の予算からどうにか捻出された保存費は要求額の半分にも満たないものであった。

腐朽は進む一方で、城下各地の有志達の衆議院への陳情によってようやく1910年国費9万3千円が支給されて「明治の大修理」が行われた。

これも天守の傾きを修正するには費用が足りず、傾きが進行するのを食い止めるに留まった。


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by spremuta-arancia | 2007-05-22 11:47 | 日本史 | Comments(0)

姫路城その1

国宝姫路城
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南北朝時代、赤松則村が姫路山上に築いた称名寺をもとに、正平元年(1336年)その子赤松貞範による築城説が有力。

室町時代(1441年)の嘉吉の乱で赤松氏が没落すると、一時山名氏が入るが、応仁の乱の混乱の中赤松氏が奪還。

16世紀前半、御着(ごちゃく)城を中心とした赤松支族の小寺氏が播州平野に台頭、その被官であった黒田重隆が城代として姫路城に入った。(この時期の築城説もある)

重隆によって居館程度の規模であった姫路城の修築がある程度行われ、地形を生かした中世城郭となったと考えられている(規模は現在のものよりはるかに小さい)。

天正初年まで黒田氏が代々城代を勤め、重隆の子職隆、孫の孝高(官兵衛、如水)に伝えられた。

天正4年(1576年)に羽柴秀吉が播磨に進駐すると、播磨国内は織田氏につく勢力と中国地方の毛利氏を頼る勢力とで激しく対立、最終的には織田方が勝利し毛利方についた小寺氏は没落。小寺氏の被官でありつつも早くから秀吉によしみを通じていた黒田孝高はそのまま秀吉に仕える事となった。

天正8年(1580年)、黒田孝高は秀吉に居城であった姫路城を献上した。

秀吉は大整備を行って近世城郭に改めるとともに、当時流行の石垣で城郭を囲いさらに天守(三層と伝えられる)を建築した。

城の南部に大規模な城下町を形成させ、姫路を播磨国の中心地となるように整備した。

天正10年(1582年)6月、秀吉は主君信長を殺害した明智光秀を山崎の戦いで討ち果たし、一気に天下人への地位を駆け上って翌天正11年には天下統一の拠点として築いた大坂城へ移動。

姫路城には弟の羽柴長秀(後の豊臣秀長)が入ったが天正13年には大和郡山へと転封、替わって親族の木下家定が入った。

慶長5年(1601年)、木下家定は備中に2万5千石で転封、代わって池田輝政が関ヶ原の戦いの戦功で52万石(播磨一国支配)で入城した。

輝政によって8年掛かりに及ぶ大改修が行われ、広大な城郭が築かれる。

元和3年(1617年)、池田氏は跡を継いだ光政が幼少であり、重要地を任せるには不安である事を理由に因幡鳥取へ転封させられ、伊勢桑名から本多忠政が15万石で入城した。

元和4年に息子本多忠刻に嫁いだ千姫の為西の丸を整備、全容がほぼ完成した。

姫路の藩主は親藩および譜代が務め、本多家の後は奥平松平家、越前松平家、榊原家、越前松平家、本多家、榊原家、越前松平家とめまぐるしく入れ替わる。

寛延2年(1749年)上野前橋城より酒井氏が入城してようやく藩主家が安定する。

しかし、豪壮な姫路城は石高15万石の姫路藩にとっては非常な重荷であり、譜代故の幕府要職も相まって藩の経済を圧迫した。

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by spremuta-arancia | 2007-05-22 10:47 | 日本史 | Comments(0)

清水宗治

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備中高松城址公園

清水宗治辞世の句

浮世をば今こそ渡れ武士(もののふ)の名を高松の苔に残して

平城で水面との差4m

秀吉は3千mに及ぶ堤をわずか12日間で完成させた。

とき恰も梅雨の頃、増水した足守川の水を流し込み、たちまちにして188haの大湖水ができ、城は孤立した。

堤防を築くのに地元の百姓から材料を調達したが、約束した報償は秀吉の大返しの為、空手形になってしまった。

高松城水攻めは黒田官兵衛孝高の献策だという説がある。

『播磨灘物語』では、秀吉の脳内にもあった。

構想を同じく考えていたことから、秀吉が官兵衛の頭脳に恐れを抱いたという描写があった。

歴史オタクの長男H君の受け売り。
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備中高松城址資料館
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by spremuta-arancia | 2007-05-21 06:20 | 日本史 | Comments(0)

三河本広寺

形原の里の近くにあじさいで有名な寺がありました。

幸田町大字深溝(ふこうず)にあり、正式名称は曹洞宗瑞雲山本光寺といいいます。

開基は三河十四松平の一つ、深溝松平の初代となる松平忠定公。

深溝松平家の祈願所・菩提所として大永3年(1523年)に建立されました。
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by spremuta-arancia | 2006-06-21 16:46 | 日本史 | Comments(0)

平凡だけど幸せな毎日を過ごすおばさんの日記


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