カテゴリ:日本史( 33 )

讃岐の国(2)

松平頼重
松平 頼重(まつだいら よりしげ)は、江戸時代前期の讃岐高松初代藩主。
水戸徳川家初代・徳川頼房の長男。

頼房の兄である尾張徳川家初代藩主・義直や紀州徳川家初代藩主・頼宣の子どもたちより先に頼房の長男として生まれたのを憚って、庶長子として扱った為に水戸藩を継承することが出来なかったといわれている。


松平頼常
松平 頼常(まつだいら よりつね)は、江戸時代前期の讃岐高松(2代目)藩主。

水戸光圀は兄の頼重を差し置いて水戸藩主となったことを申し訳なく思った。
兄の頼重の子を水戸藩主として、自身の子・頼常を高松藩主の養子とした。

明治維新になるまで、養子のやりとりを繰り返しました。
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by spremuta-arancia | 2006-06-12 11:38 | 日本史 | Comments(0)

讃岐の国

讃岐国は一時、隣国伊予国の3藩、西条藩・一柳直重、大洲藩・加藤泰興、今治藩・松平定房により分割統治されることとなった。

寛永18年(1641年)西讃地域に山崎氏が入り丸亀藩が興った。

寛永19年(1642年)東讃地域に、常陸国下館藩より御三家の水戸徳川家初代・徳川頼房の長男・松平頼重が12万石で入封し、実質的に高松藩が成立した。頼重は入封にあたり幕府より西国諸藩の動静を監察する役目を与えられた。

頼房は兄である尾張藩徳川義直・紀州藩徳川頼宣に先だって子を設けたことを憚って、長子・頼重ではなく第三子・光圀を水戸藩主に立てた。
しかし、光圀は長兄・頼重に憚り、水戸藩主の座を頼重の子である綱条に譲り、光圀の長子である頼常を高松藩主に据えた。

松平氏は入封当初より、高松城下に水道を引き、潅漑用に溜池を造るなど、水利の悪い讃岐の地を整備した。また、塩田開発を奨励した。藩財政は江戸後期に至るまで比較的安定していたが、幕末には財政は逼迫した。

5代・頼恭は平賀源内を起用し城下の栗林荘(現在の栗林公園)に薬草園を作らせた。
また、医師の向山周慶に製糖技術を学ばせ白糖の製造を可能にした。
これにより塩・小麦粉と並ぶ讃岐三白の一つである讃岐和三盆糖の製造技術が確立し現在も香川県名産品の一つとなっている。

幕末は宗家である水戸藩が尊皇に傾き、また逆に最後の藩主・頼聰の妻が井伊直弼の娘という立場から、苦しい立場に立たされた。

慶応4年(1868年)の鳥羽伏見の戦いでは幕府方に付き朝敵となった。
土佐藩・丸亀藩などが高松城下に進駐することとなったが、戦わず恭順を示したことにより赦免された。
明治4年(1871年)廃藩置県により高松県となり、のち香川県となった。
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by spremuta-arancia | 2006-06-12 10:45 | 日本史 | Comments(0)

生駒騒動(3)

収束
幕府は両派の者たちを江戸城に召して審議することにした。
この間に一方の首領の前野助左衛門が病死した。
7月、前野・石崎派と帯刀派は対決し、帯刀は前野・石崎の専横を申し立て、更に彼らが武装して立退いたことを訴えた。

幕府の裁定が決した。
帯刀派に対しては生駒帯刀は主人に対して忠心あるとして出雲国松江にお預け、その他の者も諸大名家へお預けとなった。
前野・石崎派に対しては石崎若狭、前野冶太夫(前野助左衛門の子)ら4人は切腹、彼らの子供のうち男子は死罪、また主だった者たち数人も死罪となった。

結末
同時に幕府は藩主高俊に対しても家中不取締りであるとして城地を没収。
出羽国由利郡矢島(現在の矢島町)へ流罪とし堪忍料として矢島1万石を与えた。

高松市と矢島町が友好都市になっているそうです。
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by spremuta-arancia | 2006-06-12 09:07 | 日本史 | Comments(0)

生駒騒動(2)

生駒騒動
寛永12年(1635年)、生駒家は幕府より江戸城修築の手伝い普請を命じられ、江戸の材木商の木屋から借金をして行った。
前野と石崎はこの返済のために高松城の南方の山の松林を木屋に伐採させた。
この山は親正が高松城を築いたときに要害として伐採を禁じた土地であった。
家中の者たちは憤慨し、家老生駒帯刀(生駒将監の子)を説き立て、前野と石崎の非違を親類へ訴えた。

寛永14年(1637年)7月、生駒帯刀は江戸へ出て藤堂家の藩邸へ行き訴状を差し出した。
訴状を受け取った藤堂高次は生駒帯刀を尋問。高次は穏便に済ますよう帯刀を説諭し、次いで前野と石崎を藩邸に召して厳しく訓戒し、以後は慎むよう誓わせた。

しかし、家中の不和は収まらず、かえって激しく対立するようになった。

寛永15年(1638年)10月、帯刀は再び高次に訴え出た。
高次は帯刀を呼び、家中の不和が続くようではお家滅亡になると諭して帰した。

寛永16年(1639年)4月、参勤交代で江戸に出た高次は、生駒家はお取り潰しになるかもしれないと考え、ことを収めるため喧嘩両成敗として双方の主だった者5人に切腹を申し付けることになった。

5月、藩主高俊が参勤交代で江戸に来て前野と石崎も従っていた。高次は前野、石崎および国許から帯刀を呼んで説得し、彼らは御家のために切腹することを承知した。

8月、高次は使者を遣わし江戸での決定を家中の者たちに伝えた。
これに帯刀派の家臣たちが不満を抱き、12月、彼らは江戸にいる藩主高俊に帯刀ら忠義の者の命を助けるよう訴えた。
事情を全く知らなかった高俊は驚き、親類方が相談もなくことを決めたことに怒った。

寛永17年(1640年)1月、高俊は藤堂家の藩邸に赴き高次に抗議した。
高次は説諭するが高俊は納得せず、怒った高次は生駒家の家政から手を引くことにした。

帯刀は帰国し、帯刀派は歓喜した。
江戸で切腹するつもりで控えていた前野と石崎は衝撃を受け、切腹をやめた。
4月、前野・石崎派は老中稲葉正勝に訴状を提出した。

讃岐では、前野・石崎派の侍8人、家族や家来を含めると2300人が鉄砲や刀槍で武装して国許を立退く大騒ぎになった。
江戸でも一味の者たちが藩邸を立退いた。
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by spremuta-arancia | 2006-06-12 07:32 | 日本史 | Comments(0)

讃岐の生駒騒動(1)

讃岐の国は生駒氏が治めていた。

生駒騒動(いこまそうどう)は江戸時代初期に讃岐国高松藩生駒家で起こったお家騒動。重臣が争い、生駒家は改易となった。

大名生駒氏
生駒家は織田信長、豊臣秀吉に仕えた生駒親正にはじまる。
四国平定後、親正は讃岐国17万1800石を与えられ、豊臣政権に参与した。
関ヶ原の戦いでは親正は西軍に与(くみ)したが、嫡男一正が東軍に参じて戦ったため安堵され、親正は一正に家督を譲り隠居した。
一正の後は、子の正俊が襲封した。
正俊は藤堂高虎の娘を正室とした。

生駒騒動の発端
元和7年(1621年)正俊が36歳で死去すると、11歳の小法師(高俊)が後を継いだ。
若年であるため外祖父の高虎が後見することになった。
寛永2年(1625年)、小法師は元服して高俊を名乗り、幕府の老中首席土井利勝の娘と婚約した(寛永10年に輿入れ)。
高虎は生駒家一門の家老生駒将監の力を抑えるため、生駒家では外様の家臣である前野助左衛門と石崎若狭を家老に加えさせた。

寛永7年(1630年)、高虎の死後、藤堂家は高次が継ぎ、生駒家の後見も引き継いだ。
前野助左衛門と石崎若狭は高次の意向を背景に権勢を振るい、寛永10年(1633年)に生駒将監が死ぬと藩政を牛耳るようになった。

藩主の高俊は暗愚(男色趣味)で藩政を両人に任せきりにした。
義父の土井利勝は立腹し、厳しく諌めたが高俊の行状は一向に収まらなかった。
前野と石崎はしばしば専横な行いをするようになり、これに不満を持つ家臣たちと対立して家中は乱れた。
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by spremuta-arancia | 2006-06-12 07:23 | 日本史 | Comments(0)

松山城

河野氏のあとの伊予の国

1602年(慶長7年)、加藤嘉明(賤ヶ岳の七本槍の一人)により築城開始。

加藤嘉明はこの時伊予を「松山」と呼ぶこととした。しかし1627年会津へ転封。

その後、蒲生忠知(蒲生氏郷の孫)の時、城が完成。しかし1634年若くして夭折。嗣子無く断絶。

松平定行(徳川家康の異父弟)に代わった。

松平定行以後、松山藩は松平家の所領となり明治維新を迎える。

築城当時の天守は5層であったが、後に3層に改築されている。

1873年(明治6年)の廃城令による破却に遭わなかった。

昭和に入り放火・空襲による焼失が2回あったが、昭和40年代に復元され現在に至る。

1935年(昭和10年)に国の重要文化財(城郭)に指定。

1952年(昭和27年)には国の史跡に指定。

1923年(大正12年)久松家(明治に入って松平家が姓を返上し旧姓に戻した)より松山市に寄贈し、以後、松山市の所有となっている。

1955年(昭和30年)にはロープウェイが、1968年(昭和43年)には登山リフトがそれぞれ設置され、松山市を代表する観光地の一つとなっている。

2004年(平成16年)10月より天守ほか6棟が改修工事中である。2006年(平成18年)6月終了予定。

私たちが行った時はまだ修理中でした。
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by spremuta-arancia | 2006-06-11 11:56 | 日本史 | Comments(0)

伊予の河野氏

四国旅行で湯築城跡の道後公園へ行きました。

河野氏の存在を初めて知りました。

河野氏は松山市北条付近に根拠地を持つ水軍が出自で、守護大名、戦国大名となった伊予国(愛媛県)の一族である。
道後に湯築城を築き、本拠を移した。

河野氏は伊予における有力豪族で、平清盛率いる伊勢平氏の傘下にあったが、その後、源平合戦においては河内源氏の流れを汲む源頼朝の挙兵に協力して西国の伊勢平氏勢力と戦った。
承久の乱のとき、反幕府側の後鳥羽上皇に味方したために一時的に衰退したが、元寇のときに勇将・河野通有が活躍してその武名を馳せ、河野氏の最盛期を築き上げた。

南北朝時代には四国へ進出し、伊予へ侵攻し、四国管領となった細川頼之に駆逐され、九州の南朝勢力であった懐良親王に従い伊予奪還を伺う。
幕府管領となった細川頼之が1379年の康暦の政変で失脚すると、河野氏は南朝から幕府に帰服し、頼之追討令を受けて細川方と戦う。
その後頼之が幕府に赦免されると、1386年には3代将軍足利義満の仲介で河野氏は細川氏と和睦する。

戦国時代に入ると、河野氏内部では家督をめぐっての争いが起こるようになった。
これにより河野氏はさらに衰退してゆくことになる。
対外的にも、土佐の長宗我部氏や豊後の大友氏、安芸の毛利氏や讃岐の三好氏などの侵攻を受けるようになり、1585年、河野通直の時代に長宗我部元親の軍門に降ることとなった。

しかし同年、豊臣秀吉の四国征伐で元親は秀吉に降伏し、通直も小早川隆景の説得を受けて降伏することとなった。
その後、通直は大名としての道を絶たれ、安芸竹原に仮寓を与えられた。そして1587年、通直が嗣子無くして没したため、河野氏は完全に滅亡した。

江戸期以降に成立した家譜をベースに語られてきた戦国期の河野氏の実像について、本拠である湯築城の発掘などで各方面の資料を基にした検証が進んでいる。

河野通直の死後直系の子孫は絶たれたが、遺臣たちは再興をかけて戦いを挑んだ。

朝鮮出兵において、秀吉が名護屋に移動する最中、秀吉暗殺を計る芳流閣吊り天井事件を試みたが、失敗し、予州勢残党は徹底的に弾圧され、朝鮮の役においても非常に苦しい戦場に配置された。

1600年には関が原の戦いに呼応して、安芸の毛利、村上勢と、四国に残留した平岡勢が協同して、加藤嘉明の居城 伊予松前城に攻めるが、守将佃十成の計略にはまり、完全に撃破されてしまった。
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by spremuta-arancia | 2006-06-10 17:59 | 日本史 | Comments(0)

尾張藩

このほど、尾張徳川家の歴史を知る上で貴重な手紙が公開されました。

尾張藩14代藩主・徳川慶勝が、江戸幕府の顔色を伺ったり、藩内の抵抗精力を気にしながら、改革を進めようと家老職に極秘に送った手紙です。

徳川慶勝は25歳の若さで、「支藩」の高須藩から迎えられた藩主です。

高須藩は3万石の小藩ですが、尾張藩主慶勝の弟は、会津の松平容保。桑名の松平定敬。

尾張藩には、藩政を監視するために江戸幕府から直接任命された「付家老」成瀬、竹腰両家がいます。

手紙は、その両家に実力で肩を並べるように家老職になった、生駒周晃(ちかあきら)に宛てた手紙だそうです。

藩政改革に苦労した殿様だったのですね。

その努力は大変だっただろうと同情しますが、世に言う「青松葉事件」はちょっと評価できない。
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by spremuta-arancia | 2006-05-14 08:38 | 日本史 | Comments(0)

海津市歴史民俗資料館

かねてからの念願でした海津市へ行きました。

木曽三川公園と海津市歴史民俗資料館。

桑名から、近鉄養老線で石津駅で下車して、海津市市営巡回バスに乗車。

「100円」

6種類の路線があり、各々1日に3回か4回しか走らないので乗り過ごすと大変です。

道幅がとても狭い(6m)ので、車同士すれ違う時には片方が待って道を譲ります。

私たちが乗った時は工事用の車両が駐車していて、巡回バスが通れなくて困りました。

近くに駐車した車両の運転手さんがいるかもしれない。

巡回バスの運転手さんがクラクションを鳴らしましたが、誰も来てくれません。

通りかかったバイクのあんちゃんがバスを誘導してくれて通り抜けることができました。

平田靱負ら治水工事で命を落とした薩摩藩士たちを祀った治水神社。
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木曽三川公園展望タワーからの眺め。
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幕末に活躍した会津の「松平容保」桑名の「松平定敬」が出た高須藩のの歴史に関する展示があるかと思って行ったのですが、期待しすぎでした。

洪水の被害から輪中を守る干拓工事についての展示が主でした。

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by spremuta-arancia | 2006-05-03 19:22 | 日本史 | Comments(0)

靖国参拝

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靖国の敷地内にある遊就館へ行きました。

中では映画を上映していました。

立場の違いでこんなに、過去に対する歴史観が変わるものかと驚きました。

同時に近代史を、正しく学ぶことをしてこなかったことを反省しました。

誰に何を言われても、揺るがない歴史認識を持ちたいと思いました。
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by spremuta-arancia | 2006-04-19 06:45 | 日本史 | Comments(0)

平凡だけど幸せな毎日を過ごすおばさんの日記


by spremuta-arancia
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