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讃岐の生駒騒動(1)

讃岐の国は生駒氏が治めていた。

生駒騒動(いこまそうどう)は江戸時代初期に讃岐国高松藩生駒家で起こったお家騒動。重臣が争い、生駒家は改易となった。

大名生駒氏
生駒家は織田信長、豊臣秀吉に仕えた生駒親正にはじまる。
四国平定後、親正は讃岐国17万1800石を与えられ、豊臣政権に参与した。
関ヶ原の戦いでは親正は西軍に与(くみ)したが、嫡男一正が東軍に参じて戦ったため安堵され、親正は一正に家督を譲り隠居した。
一正の後は、子の正俊が襲封した。
正俊は藤堂高虎の娘を正室とした。

生駒騒動の発端
元和7年(1621年)正俊が36歳で死去すると、11歳の小法師(高俊)が後を継いだ。
若年であるため外祖父の高虎が後見することになった。
寛永2年(1625年)、小法師は元服して高俊を名乗り、幕府の老中首席土井利勝の娘と婚約した(寛永10年に輿入れ)。
高虎は生駒家一門の家老生駒将監の力を抑えるため、生駒家では外様の家臣である前野助左衛門と石崎若狭を家老に加えさせた。

寛永7年(1630年)、高虎の死後、藤堂家は高次が継ぎ、生駒家の後見も引き継いだ。
前野助左衛門と石崎若狭は高次の意向を背景に権勢を振るい、寛永10年(1633年)に生駒将監が死ぬと藩政を牛耳るようになった。

藩主の高俊は暗愚(男色趣味)で藩政を両人に任せきりにした。
義父の土井利勝は立腹し、厳しく諌めたが高俊の行状は一向に収まらなかった。
前野と石崎はしばしば専横な行いをするようになり、これに不満を持つ家臣たちと対立して家中は乱れた。
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by spremuta-arancia | 2006-06-12 07:23 | 日本史 | Comments(0)

平凡だけど幸せな毎日を過ごすおばさんの日記


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